わたしの音色





第二回 「与えようとするのをやめなさい」





――与えようとするのをやめなさい





以前、そんなメッセージを受け取ったことがありました。


まだまだわたしは精神的にいまよりも未熟だったのだと思います。


しようしようと、どこかで意気込んでいたのですね。





当時、そのメッセージを受け取ったとき、心の奥底では僅かに響いているのですが、まだ腑に落ちるところまではいっていませんでした。





「無条件の愛」とは、よく聴くことばです。


「無条件の愛」、それは存在そのものが放つ新しいエネルギーなのだと、のちになって本当に気づいたとき。


そのことばの真意を、安らかに受け取ることができました。





自我は、与えよう、与えようとします。その裏では、得よう、得ようとするのです。


何を――?


自分の価値を証明することを。





自我は常に、自分の価値を証明しよう、しようと、何かを「しよう」としてしまうのです。


それは、与えなければ、与えなければ、得なければ、得なければといった無意識の無限ループにはまっているのですね。





その古い世界では、本当の安らぎも歓びもないのです。


古い地球では、一人ひとりが自己否定、自己価値の低さという概念に囚われて生きています。


その概念から解放されたとき、本当に自然に与えている状態、受け取っている状態にある。


いま、与えている、受け取っている。


まるで呼吸をするように。





そして、ただわくわくする、深い部分でときめくことを「する」。


「しよう」と「する」は、まったくの別世界の話――。





「しよう」、それはもう古い古い世界のお話なんですね。
























コラム 「上品蓮台」



わたしの好きなことばのひとつ。


「上品蓮台(じょうぼんれんだい)」


意味は、極楽浄土にあって、上品の人の化生(けしょう)する、七宝池の蓮(はす)のうてな。極楽の上級の所。


「上品」ということばは、仏教用語だそうで、「上品(じょうぼん)」「下品(げぼん)」「中品(ちゅうぼん)」と分けて、その意識のあり様を現わしているのだそうです。


現代では、「上品(じょうひん)」に対する反対語として「下品(げひん)」ということばが使われますが、何気なく日ごろ、聞いたり、目にしたり、使ったりすることばにも、元のソースがやはり残って入るものだなと感じるのです。



品というのは、源の光そのもの。



光とは、イミテーションのようなギラついたものではなく、とても品があるのです。


生命の光というのは、とても品があるもの。それは内に宿っているものであり、思いやりなのですね。決してアピールするようなものではなく。


本来の神性の光と一体となると、人は、とても落ち着くのです。とても安らかな境地で、歓びで、いつもいられるのです。



そして、あなたの意思に、すべてのエネルギーが集結する。奉仕するのです。


一瞬、垣間見る世界から、一週間ほど体験し、そして永遠のあるがままのわたしに。


「上品蓮台(じょうぼんれんだい)」



まさに、そのような状態であるのですね。

















第一回 「月の微笑み」





神性(わたし)の微笑みは、まるで月の微笑みのよう。 神性(わたし)が開花してくると、自然と「品性」が輝き始めます。 品が出てくると言ってもいいでしょうか。


それは内側の神性の光から溢れる、自然なもの。


神性の光とは「品性」とも表現できると思うのです。





落ち着いた、上品な、思いやりの光。


まるで闇夜に静かに輝く月のように。





自我は、常に足りない、足りないと、何かを求めて荒々しいものです。


その荒々しい思い(自我)を、「わたしである生命」のスペースですべての側面を光に還していくと、自然に思いやりのままにあることができるようになります。


完全なる受容。月が多くの自我(太陽)を飲む込み、新たな輝きに変える。


主の交代です。


統一された生命であるわたしは、常に感じています。月のように、静かに、うれしく。気づいています。多くの次元にわたって。その感じるということが、深くなればなるほどに、「わたし自身」を生きられるのです。


外側に何かを求めて、渇望感を満たすために、「自分」の価値を証明するために戦い、荒々しく生きた時代が終わるのです。


外側に何かがあったという幻想から解き放たれ、すべては自身という宇宙の内側で起こった葛藤だったと。周波数を下げて創り出した、偏った自我の幻想だったと。


そして――、 あなたの、あなた自神の花を咲かせて。


それは、多くの次元とも光で調和した、わたしである生命の状態として存在するということ。


まったく新しい人間である自己を生きる。


完全に主権をもった、創造主として生きる。


神性と人間の融合。


主の交代。


それは、まるで月が微笑むかのように。


月の微笑み。

























コラム 「上品蓮台」



わたしの好きなことばのひとつ。


「上品蓮台(じょうぼんれんだい)」


意味は、極楽浄土にあって、上品の人の化生(けしょう)する、七宝池の蓮(はす)のうてな。極楽の上級の所。


「上品」ということばは、仏教用語だそうで、「上品(じょうぼん)」「下品(げぼん)」「中品(ちゅうぼん)」と分けて、その意識のあり様を現わしているのだそうです。


現代では、「上品(じょうひん)」に対する反対語として「下品(げひん)」ということばが使われますが、何気なく日ごろ、聞いたり、目にしたり、使ったりすることばにも、元のソースがやはり残って入るものだなと感じるのです。



品というのは、源の光そのもの。



光とは、イミテーションのようなギラついたものではなく、とても品があるのです。


生命の光というのは、とても品があるもの。それは内に宿っているものであり、思いやりなのですね。決してアピールするようなものではなく。


本来の神性の光と一体となると、人は、とても落ち着くのです。とても安らかな境地で、歓びで、いつもいられるのです。



そして、あなたの意思に、すべてのエネルギーが集結する。奉仕するのです。


一瞬、垣間見る世界から、一週間ほど体験し、そして永遠のあるがままのわたしに。


「上品蓮台(じょうぼんれんだい)」



まさに、そのような状態であるのですね。

















第二回 与えようとするのをやめなさい


コラム むすひ




第一回 月の微笑み


コラム「上品蓮台」